洋学博覧漫筆
かいたいしんしょ |
Vol.1 『解体新書』の出版 |
▲『解体新書』 (津山洋学資料館寄託資料)
今から240年ほど前の明和8年(1771)、江戸の小塚原刑場で刑死体の腑分けが実施されました。そのとき立ち会った小浜藩医・杉田玄白と中津藩医・前野良沢は、それぞれが同じ解剖書『ターフェル・アナトミア』(著者はドイツ人のクルムス、そのオランダ語版)を持参した奇遇に感嘆しつつ、腑分けに臨んだと伝えられています。 刑死体の内臓を観察し、ち密に描かれた解剖図と見比べた玄白は「まるで鏡に映したようにそっくりだ」と興奮し、帰る道々これを翻訳することを決意します。
早速、翌日から長崎でオランダ語を学んだ経験を持つ良沢を囲んで翻訳が進められ、3年後の安永3年(1774)、ようやく『解体新書』の出版にこぎ着けたのでした。
玄白の回顧録『蘭学事始』を読むと、困難を極めた翻訳時の苦労をしのぶことができます。この事業の重要な点は、翻訳することによって西洋の進んだ医学を会得できたということでした。
そのころ、津山藩江戸屋敷に、先代から漢方医として仕えていた宇田川玄随という青年がいました。
彼は、中国の医学を信奉していた漢方医たちと同様に「西洋の学問と中国の進んだ学問を同列に考えるのは愚かなこと」と思っていました。
しかし『解体新書』翻訳メンバーと交わる機会を得て、次第に西洋医学への関心を深めます。やがて日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』を出版し、津山藩の洋学の先駆けとなるのですが、それは後の話にしましょう。
さて、津山洋学資料館に展示されている『解体新書』の見開きを注意して見ていると、著訳者杉田玄白・中川淳庵・石川玄常・桂川甫周の名の上に、わざわざ「日本」と刻まれていることに気づきます。
中国の漢方医学を意識し「西洋医学をアジアで初めて紹介したのは日本人の私たちだ」という、彼らの心意気が伝わってくるようです。
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