津山洋学資料館

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秋坪が見た黒船

 

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洋学博覧漫筆

 

           しゅうへい
Vol.40 秋坪が見た黒船

 

異国船渡来之図」

(津山洋学資料館所蔵)

 嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の艦隊が浦賀沖に現れます。いわゆる黒船の来航です。

 ペリー来航の報は、その日のうちに津山藩の江戸屋敷にも伝わりました。津山藩では、万一のときに備えて出兵の準備を整える一方で、少しでも正確な情報をつかもうと、現地へ藩士の箕作秋坪を送ることにしました。秋坪は3年前に阮甫の養子となり、前年に藩主のお目見えをいただいたばかりでしたが、この大役に抜擢されました。

 藩命を受けた秋坪は、10日の夕方に深川から船に乗り込み、浦賀へ向けて出発しました。羽田沖で夜明けを迎え、午前10時ごろ、沖合に浮かぶ艦隊の姿を見つけました。それは、秋坪も初めて目にする巨大な蒸気軍艦でした。

 この日、ペリーは艦艇からたくさんの小舟を下して、江戸湾の深さを測量させていました。秋坪が望遠鏡を取り出し、顔色まで分かるほど近づいて、じっと様子をうかがっていると、秋坪たちの舟に気づいた小舟2隻がこぎ寄ってくるのです。「掛かり合っては大変なことになる」と思った秋坪は、船頭たちに騒がないよう命じると、一気に船をこいで遠ざかり、難を逃れたのでした。

 実は、この前々日の9日には、久里浜に上陸したアメリカ兵によって浦賀奉行にアメリカ合衆国フィルモア大統領の親書がすでに手渡されていました。浦賀に上陸した秋坪は、親書の受領の様子や黒船に関する情報を調べ、急いで報告書をまとめると、津山藩邸に送りました。

 翌12日、ペリーは1年後に親書の返事を聞きに来ると予告し、浦賀を出航しました。秋坪はそれを見届けると江戸へ戻り、藩に、さらに細かく報告しました。

 浦賀奉行が受け取った大統領の親書は江戸城へ運ばれ、幕府の蕃書和解御用を務める阮甫が翻訳に当たっています。相次ぐ外国船の来航で洋学者を必要としていた幕府は、同年10月、秋坪も蕃書和解御用に召し出します。このことを始まりに、この後、秋坪は多くの外交交渉に携わっていくことになるのです。

 

 

 

 

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