津山洋学資料館

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箕作阮甫の生い立ち

 

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洋学博覧漫筆

 

            みつくりげんぽ
Vol.26 箕作阮甫の生い立ち

 

国指定史跡、箕作阮甫旧宅(西新町)

宇田川家は代々江戸詰でしたが、箕作阮甫は津山で生まれました。西新町には14歳ごろまで過ごした生家が残っているので、市民の皆さんにとっては一番なじみの深い洋学者なのではないでしょうか。

 阮甫は寛政11年(1799)に父・貞固と母・清子の三男として生まれました。箕作家の医業は曽祖父の貞弁から始まり、評判の良い町医者だった貞固が、天明2年(1782)に藩医に取り立てられます。その翌年には早速江戸への参勤のお供を命じられ、藩主の信頼を得て順調に席次も登っていましたが、享和2年(1802)、阮甫が4歳のときに44歳の若さで亡くなってしまったのでした。

 阮甫には二人の兄と姉がいましたが、長兄と姉は幼くして亡くなってしまいました。そこで、わずか9歳の次兄・豊順が箕作家を継ぐことになります。町医者としての収入もなくなり、藩の扶持も半減され、清子は苦しい家計を支えながら、豊順が立派な医者になるよう教育しました。豊順も、母の思いに応えて修業に精を出しましたが、その苦労がたたってか17歳で亡くなってしまいます。12歳になっていた阮甫は兄の跡を継ぎ、貧しい暮らしの中で一生懸命勉強しました。もともと賢く、本を読むのが好きだった阮甫は、周囲の人も認めるほど学問に励んだのでしょう。藩主からもほめられたことが「箕作家勤書」に記されています。

 18歳になると、箕作家の再興をかけて京都の高名な医師・竹中文輔に入門し、漢方医学を学びます。少しの時間も惜しんで一生懸命修業に励み「同学の者で拮抗する者はいなかった」といわれています。そして、3年間の修業を無事に終えて津山に帰り、ついに藩医に取り立てられたのでした。

 後に、迫害の危険をも顧みず洋学研究に打ち込み、活躍することになる阮甫。その不屈の精神はこうした幼年時代に築かれたのかもしれません。

 

 

 

 

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