洋学博覧漫筆
しゅうへい |
Vol.44 秋坪、再びロシアへ |
▲日露和親条約,日露修好通商条約 の写し (津山洋学資料館所蔵) 箕作秋坪は、幕命により開港・開市の延期交渉のための使節に随行して、ヨーロッパ6カ国を7カ月かけて巡り、文久2年(1862)に帰国しました。秋坪が渡欧している間に、日本では外国人を排斥しようとする攘夷運動が激しくなり、西洋の学問を研究する洋学者たちにも身の危険が及ぶようになっていました。 秋坪とともに渡欧した福地源一郎は、後に当時を回想して「海外のことをみだりに口外しないようにとの内訓を、奉行が我らに下したほどであった」とつづっています。せっかくヨーロッパで新知識を得てきたものの、それを話すことさえ難しい状況になっていたのです。 さらに、このころ、秋坪の身辺では不幸が相次ぎます。文久3年(1863)6月10日に、恩師・緒方洪庵が、そのわずか7日後には養父・阮甫が亡くなります。追い打ちをかけるように、7月には勝山(現在の真庭市勝山)で暮らしていた実母の多美が大病との知らせを受けます。秋坪は急いで帰郷しましたが、たどり着いたときにはすでに遅く、母は亡くなっていました。 その一方で仕事は多忙を極め、元治元年(1864)には、友人の福沢諭吉とともに幕臣に召し出され「外国奉行支配翻訳係」となりました。 慶応2年(1866)2月、妻つねが病のため39歳という若さで亡くなります。このとき、長男の奎吾は16歳、二男大六は13歳、三男佳吉は11歳、四男元八はわずか6歳でした。悲しみに暮れる間もなく、同年9月、秋坪は再び幕府の外交使節に随行して、ロシアに向かうよう命じられます。今回の訪露の目的は、樺太の国境画定の交渉でした。阮甫も、嘉永6年(1853)にロシア船が来航した際の応接使に随行しており、はからずも箕作家は2代続けてロシアとの交渉に関わることになったのです。 箱館奉行の小出秀実を正使に、わずか19名の一行は10月12日に横浜を出帆、パリを経由して約2カ月をかけてロシアの首都ペテルブルグに到着します。画定交渉は11回にわたって行われましたが、結局、合意には至らず、暫定協定を結んで一行は空しく帰路についたのでした。 帰国からわずか5カ月後の10月に大政奉還、12月には王政復古の大号令が出され、260年続いた江戸幕府は終わりを告げました。秋坪はこの歴史の流れをどのような思いで見ていたのでしょうか。明治の世になってからは、政府からの再三の出仕の求めも断り、家督を奎吾に譲って隠居したのでした。
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