洋学博覧漫筆
みつくりあきよし フランスほうりつしょ |
Vol.49 箕作麟祥と『仏蘭西法律書』 |
▲箕作麟祥 箕作阮甫の孫たちには、幼名に生まれた順番の数字が入っています。一の字がついた初孫は、阮甫の四女ちまと養子の省吾との間に生まれた貞一郎(のちの麟祥)です。 弘化3年(1846)7月29日、麟祥は津山藩の江戸上屋敷で生まれました。麟祥の誕生からわずか4カ月後、父が結核で急死してしまい、さらに麟祥が6歳になると、母も加賀藩の江戸屋敷へ奉公に出てしまいます。そのため、麟祥は阮甫に育てられました。 文久元年(1861)、16歳になった麟祥は幕府の蕃書調所へ出仕します。その5年後、幕府はパリで開かれる万国博覧会に使節を派遣することを決めました。そのことを知ると、かねてから洋行を望んでいた麟祥は、早速随行を願い出ました。そして英仏辞書を手に入れ、独学で2カ月間フランス語を猛勉強しました。その努力が認められて、使節団員に抜擢されます。 この万博は日本が初めて正式に参加するもので、正使は将軍・徳川慶喜の弟・昭武でした。麟祥は昭武に随って各国を巡る間もフランス語の勉強を続け、帰国するころには貿易の約定書を作成できるほどに上達していました。このことが、後に麟祥を明治政府の法律整備に携わらせることになるのです。 明治2年(1869)、語学力を評価された麟祥は、政府からフランスの刑法の翻訳を命じられました。続いて民法や商法、訴訟法、治罪法も翻訳し、これらは『仏蘭西法律書』と題して刊行されます。この書は、初めて日本に近代的な法典を紹介し、多くの法律用語を定着させました。「権利」「義務」という言葉はこの書で麟祥が採用したことで使われるようになります。実は「動産」「不動産」といった単語は麟祥が考案した造語なのです。外国の法律の概念や用語を翻訳するのは大変な作業だったようで、のちに麟祥は当時を振り返り「註釈書もなければ辞書もなく、教師もいないという状況で、実に五里霧中だった」と懐古しています。 その後も麟祥は政府の学制取調係をはじめ、民法や会社条例法、破産法、商法の編纂委員や法律法典取調委員などの重要な役割を歴任しました。 明治30年(1897)、麟祥は52歳で亡くなります。明治政府は麟祥の死を悼み、その功績をたたえて男爵の爵位を追贈しています。明治の法律制定の背景に、麟祥の活躍を忘れることはできないのです。 |
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