津山洋学資料館

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玄随の2枚の肖像画

 

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洋学博覧漫筆

 

        げんずい
Vol.4 玄随の2枚の肖像画

 

▲宇田川玄随肖像画

(武田科学振興財団杏雨書屋所蔵(左))

(岡山県立博物館所蔵(右))

 日本で最初の西洋内科書『西説内科撰要』を翻訳刊行した人というと、どのような人物をイメージしますか?今回は2枚の肖像画をもとに、津山藩医・宇田川玄随の人となりに迫ってみたいと思います。

 玄随の肖像画は、現在、岡山県立博物館(右)と武田薬品の武田科学振興財団杏雨書屋(左)が所蔵しています。

 このうち、県立博物館の肖像画には、有名な蘭学者・大槻玄沢が玄随の人物評を書き添えています。それによると玄随の容姿は、色が白く体は小作り、顔付きは柔和で鼻は顔の釣り合いより大きく、眉は真っすぐでした。玄沢が挙げた特徴は、肖像画ともほぼ一致しています。顔は少し丸く描かれていますが、玄沢が「これは顔が太り過ぎだ」と書いているので、実際は杏雨書屋の肖像の方がより似ていたのでしょう。

 また「玄随は常に控えめで、争いを好まない物静かな性格だったため、言葉や挙動が穏やかで婦人のようだった」と玄沢は記しています。そうした姿や体型から、友人たちは尊敬と親愛を込め、玄随の号「東海」とかけて「東海婦人」というあだ名をつけていました。

 平成元年、宇田川家3代顕彰実行委員会によって、宇田川家3代の墓所が東京の多磨霊園から津山市西寺町の泰安寺に移されました。その際に遺骨の鑑定を行い、玄随の身長は148.5センチメートルだったことが分かっています。当時の庶民男性の平均身長156センチメートルに比べると、少し小柄です。また、上半身の骨は女性を思わせるほど細く、玄沢の記述を裏付ける結果となりました。

 しかし、驚いたことに下半身の骨は意外に太く、相当な健脚家だったことが分かりました。これは内科書を翻訳するため、10年間も必死で江戸市中を奔走したことを示す証しなのです。

 穏やかな顔立ちの肖像画は、上半身と下半身の骨の造りが変わってしまうほど学問に打ち込んだ玄随の意志の強さを伝えているのでしょうか。

 

 

 

 

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