洋学博覧漫筆
Vol.31 黒船の来航 |
▲ペリー2度目の来航の様子 「黒船来航絵巻」 (津山洋学資料館所蔵) 箕作阮甫の行った大きな仕事の一つに、アメリカやロシアとの外交交渉に尽力したことが挙げられます。今回は阮甫と開国の幕開けとなった黒船来航とのかかわりを紹介しましょう。 嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ海軍のペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県)沖に現れます。煙をもうもうと吐き出す巨大な黒い蒸気軍艦は人々を驚かせ、ペリー来航の報はすぐに江戸へ伝えられました。 幕府は長崎へ回航するよう要請しますが、ペリーはそれを拒んだだけでなく、蒸気船に護衛させた測量船を江戸湾に進入させて幕府に圧力を加えました。アヘン戦争で中国が少数のイギリス軍艦に敗北したことを知っていた幕府は、やむなくペリーが持参した大統領の親書を受け取ることを決めます。6月9日、ペリーは久里浜(神奈川県)に上陸して浦賀奉行に親書を渡すと、翌年再び来航すると予告して12日に去っていきました。 その2日後、阮甫は津山藩大目付に呼び出され、急ぎの翻訳の仕事のために翌日から江戸城へ登るよう命じられます。登城した阮甫に示されたのは、ペリーが持参したオランダ語で書かれたフィルモア大統領の親書でした。阮甫は、同じように蕃書和解御用を勤めていた杉田成卿、宇田川興斎とともに、4日間かけて親書の翻訳を行っています。 親書には開国と交易、漂流民の保護、石炭や水の供給などの要求が記されていました。幕府はその内容を大名や旗本に公開して広く意見を募り、800通にも及ぶ意見書が集まります。その多くは幕府に気を遣ってあいまいな内容でしたが、阮甫を始め多くの洋学者を抱えていた津山藩主の松平斉民は、世界の情勢を正確に説いて「速やかに開国すべき」と主張したのでした。この斉民の意見に、阮甫たちの影響があったことは間違いないでしょう。 この後、幕府は開国和親という方針を採り、ペリーが再来した嘉永7年(1854)3月に日米和親条約を締結。日本は200年以上にわたる「鎖国」政策をやめ、開国することになったのです。
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