津山洋学資料館

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黒船の乗組員からもらった煙草

 

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洋学博覧漫筆

 

         
Vol.41 黒船の乗組員からもらった煙草

 

秋坪がもらった紙巻き煙草など

(津山洋学資料館寄託資料)

ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した嘉永6年(1853)、箕作家の人々は多忙な日々を過ごしていました。最初に秋坪が、津山藩から黒船の偵察を命じられ、次いで阮甫が、幕府からペリーが持参したアメリカ国書の翻訳を命じられます。10月には幕府の蕃書和解御用に秋坪が召し出され、さらに長崎に来航したロシア船の応接使に随行して、阮甫が長崎に向かいます。

 阮甫が江戸に不在のまま新しい年を迎えた嘉永7年(1854)1月、前年渡した国書の返事を聞こうと、ペリーが再び来航します。秋坪は再度津山藩から偵察を命じられ、同じく藩医の宇田川興斎、絵師の鍬形赤子とともに浦賀に向けて出発しました。

 その数日後、津山藩は幕府から高輪周辺の警備を命じられ、家老の安藤主税介が指揮を取り、本陣となった泉岳寺に藩士を派兵しています。海上の艦隊の動きがよく見える神奈川宿のうなぎ店に潜んでいた秋坪たちは、黒船の様子や周辺の状況を調べて本陣に報告しました。

 2月9日、明日、日米交渉が行われるという情報をつかんだ秋坪は、急いで注進書(報告書)を提出しました。そして翌10日、秋坪の報告通り、アメリカ側は500人の将兵を率いて横浜に上陸し、第1回交渉が行われます。以後第4回まで会談を重ねて、3月3日に日米和親条約を締結、日本はついに開国したのでした。

 このペリーの2度目の来航のおり、何と、秋坪はアメリカ兵と交流し、サラトガ号の乗組員ゴールズボロー大尉から名刺や紙巻き煙草などをもらっています。

 二人がどのように出会ったかは記録が残されていませんが、サラトガ号は他の艦隊に遅れて2月6日に来航し、一方、秋坪は15日に幕府の翻訳の仕事のため江戸へ呼び戻されています。したがって二人の邂逅(巡り合い)はその間の、10日に行われた第1回交渉のときと考えられるのです。このときの交渉が長引いたため、建物の外で待機していたアメリカ兵たちは付近を散策していました。そして偵察のため近くに来ていた秋坪とたまたま出会ったのでしょう。

 これらの品々は家老を務めた安藤家に代々伝えられていて、開国前夜に行われた日米交流の様子を、私たちに教えてくれています。

 

 

 

 

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