津山洋学資料館

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榕菴の後継

 

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洋学博覧漫筆

 

           ようあん
Vol.24 榕菴の後継

 

宇田川興斎肖像画

(早稲田大学図書館所蔵の写真を

基に作成したもの)

江戸詰の津山藩医・宇田川家は玄随の後、玄真、榕菴と代々養子が続いていました。榕菴もまた子どもに恵まれず、46歳のときに飯沼興蔵(後に興斎と改名)を養子に迎えています。

 興斎は、文政4年(1821)に、大垣(今の岐阜県大垣市)に住む医師・飯沼慾斎の三男として生まれました。慾斎は若い頃に江戸で榕菴の養父・玄真に学んでいて、植物への関心が深く、榕菴とも厚い親交があった人物です。父と同じように江戸へ出て榕菴の下で学んでいた興斎は、その才能を見込まれ、24歳で養子にと望まれたのでした。

 宇田川家に入った興斎はまず儒学者の広瀬旭荘に入門し、次いで坪井信道の下で医学と蘭学を学んでいます。信道は玄真の一番弟子で、このころには長州藩医(江戸詰)の勤めのかたわら、開業して名医と言われていました。よほど興斎は熱心に学んでいたのでしょう、信道から「志の篤い書生だ」とほめられています。弘化3年(1846)には、早くも幕府の蕃書和解御用に手伝いとして召し出されました。

 この年の6月、藩医や和解御用の仕事、その一方で日本初の本格的な化学書『舎密開宗』の刊行と忙しく過ごしていた榕菴が、春から体調を崩し49歳という若さで亡くなってしまいます。興斎は養子となってわずか3年で家督を相続し、和解御用での仕事も引き継ぐことになったのでした。きっと、榕菴から学びたいことはまだたくさんあったに違いありません。

 榕菴の没後、坪井信道が緒方洪庵に送った手紙には「興斎はすこぶる才子で、原書も相応にでき、治療の才能もある。榕菴よりも世俗に通じているので、家計のことは少しも心配ないだろう…」と書き残しています。信道の言葉の通り、この後興斎は医療や翻訳に力を発揮していきます。

 興斎が活躍したのは、相次ぐ異国船の来航や、開国、そして明治維新へと社会が大きく変わっていく時代でした。興斎もまた、その歴史の流れの中に巻き込まれていくことになるのです。

 

 

 

 

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