洋学博覧漫筆
きくちだいろく |
Vol.50 菊池大麓の2度のイギリス留学 |
▲菊池大麓 箕作阮甫の三女つねと養子の秋坪には、奎吾 、大六(後の大麓)、佳吉、元八の4人の息子がいました。そのうち長男の奎吾は20歳で亡くなりますが、3人は留学の後、学者となって活躍します。 次男の大麓は、安政2年(1855)に津山藩の江戸上屋敷で生まれました。幼くして江戸幕府が設立した洋学の学校である蕃書調所に入学して英語を学び始め、わずか10歳で「英学稽古人世話心得」を命じられ、年上の生徒にも英語を教えていたといわれています。 大きな転機が訪れたのは大麓が12歳のとき。奎吾とともに、幕府が派遣するイギリス留学生の一員に選ばれたのです。留学生一行はロンドンのユニバーシティ・カレッジの附属高校に入学しました。ところが、入学のわずか2週間後に江戸幕府崩壊の知らせが届き、志半ばでイギリスを離れることとなりました。 帰国後、大学南校(後の東京大学)に出仕していた大麓は、明治3年(1870)、今度は明治政府からイギリス留学を命じられます。再びイギリスの高校に入学した大麓は大変な努力を重ね、最初の学年末試験では英語、数学、地学で1番の成績を収めます。 明治6年(1873)、首席で高校を卒業した大麓は、500人以上の受験者の中で3番目という優秀な成績でロンドン大学に合格しました。また、同時にケンブリッジ大学にも合格し、そこで数学を専攻しています。 明治10年(1877)5月、大麓は2つの大学で学位を得て帰国した後、東京大学理学部の教授に就任し、日本人で最初の数学教授として教壇に立ちました。その頃、大学ではほとんどの授業が英語で行われていて、大麓は当時の日本で最も完璧な英語を話せる日本人だったといわれています。また、明治21年(1888)に大麓が刊行した『初等幾何学教科書』は、日本に本格的な幾何学を導入した書物として多くの学校で使われ「菊池の幾何」といわれていました。 その後、大麓は東京大学の理学部長や総長、京都帝国大学の総長などを歴任し、明治34年(1901)には桂内閣の文部大臣となり、教育行政にも尽力しました。そして、大正6年(1917)、学術の近代化を率先した63年の生涯を終えたのでした。
|
< 前号 | 記事一覧 | 次号 > |