洋学博覧漫筆
げんしん すぎたげんぱく |
Vol.8 玄真と杉田玄白 |
▲『蘭学事始』(復刻) それによると、玄白の屋敷に移り住んだ玄真は、蘭書(オランダ語の本)が何十冊もある恵まれた環境で勉学に励み、一段と学力を伸ばしたといいます。玄白は、そんな玄真の様子をとても喜んでいました。 ところが、安定した生活を得ると心に緩みが生まれたのでしょうか、次第に放蕩を重ねるようになってしまいます。たびたび注意されても改まらず、とうとう玄白は「惜しむべき才子」と思いつつも、離縁を決意したのでした。 杉田家を追われた玄真は、たちまち生活に困ってしまいます。それでも蘭学の勉強をあきらめることはできませんでした。友人たちはそんな玄真を心配し、陰ながら援助をしたり、蘭書の翻訳の仕事をさせたりして助けました。その一人が鳥取藩医の稲村三伯です。 当時、三伯は日本で初めてのオランダ語辞典を作ろうとしていましたが、何万語もの単語を翻訳する作業は大変なものでした。そこで、語学力に優れた玄真に作業を手伝わせたのです。玄真の助力を得て、寛政8年(1796)、ついに初の蘭日辞典『ハルマ和解』は完成します。 その功績は玄真への信頼を取り戻すきっかけになりました。完成の翌年、宇田川玄随が42歳の若さで亡くなります。玄随には跡継ぎがいなかったので、弟子たちは誰を養子に迎えるか相談しました。議論は随分ともめたようですが『ハルマ和解』編さんでの功績や抜きん出た才能が認められ、玄真が推挙されたのです。寛政10年(1798)2月、ようやく藩の許しを得た玄真は宇田川家を相続しました。 それからの玄真はますます研究に励み、多くの業績を上げました。中でも特に有名な医学書『医範提綱』を刊行したころ、玄真は過去の行いを謝るために、再び杉田家の門を叩きます。心を入れ替えて励む姿と、何より積み重ねてきた実績を認めたのでしょう。玄白は玄真を許し、かつて父子だったころのように交流し始めたのでした。
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