津山洋学資料館

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「新製輿地全図」の刊行

 

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洋学博覧漫筆

 

                     しんせいよちぜんず
Vol.38 「新製輿地全図」の刊行

 

坤輿図識補

    (津山洋学資料館所蔵)

 弘化元年(1844)、箕作阮甫の末娘「しん」と結婚した省吾は、同じ年の暮れに世界地図「新製輿地全図」を刊行しました。

 これは1835年にフランス人が刊行した地図を基に、省吾が研究で得た最新の情報を盛り込んで作成したものでした。なかでも特徴的だったのは、イギリスの植民地には「㋽」というように、記号を用いてその地域がどの国に支配されているかを明示したことです。

 このころ、欧米の列強諸国は世界各地に次々と植民地を広げていて、日本の近海にも外国船が現れるようになっていました。省吾は、こうした海外の情勢を伝えて、日本人の目を世界へと向けさせようとしたのです。

 翌年には「新製輿地全図」の解説書として『坤輿図識』5巻の刊行を開始し、これらは大変なベストセラーとなりました。そのおかげで箕作家の家計は一時潤ったといわれています。

 続いて省吾は補巻の執筆に取りかかりますが、第2巻を執筆している最中、労咳(結核)のため突然血を吐いて、倒れてしまいます。阮甫が何度となく療養に専念するようたしなめても、友人が忠告しても、ただうなずくだけで、喀血で汚れた原稿を隠して執筆を続けました。そのため、この原稿は「血染めの原稿」といわれてもいます。

 弘化3年(1846)7月には一人息子の貞一郎(後の麟祥)が生まれます。省吾の病も一時、小康状態となり、春には再起できるかと周囲の人々は期待しましたが、同年12月、26歳という若さで亡くなりました。

 遺された原稿は、阮甫の手で刊行され、幕末に活躍する多くの志士たちに影響を与えました。安政元年(1854)、ペリーが黒船で来航した際に、密航しようとして捕まった吉田松陰は、獄中から兄へ「『坤輿図識補』を読みたいが、何とか手に入れるすべはないだろうか」と手紙を書き送っています。

 また、坂本竜馬は、少年時代に親戚の家へしばしば遊びに行き、そこにあった「新製輿地全図」に見入っていたという逸話が残っています。竜馬の世界認識は、この地図によって育まれたのかもしれません。省吾が命を賭して執筆したこれらの書は、若者たちを導く大きな役割を果たしたのです。

 

 

 

 

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