洋学博覧漫筆
すいじょうせんせつりゃく うんこうまる |
Vol.35 『水蒸船説略』と雲行丸 |
▲津山洋学資料館に展示してる 雲行丸(推定模型) 薩摩藩主の島津斉彬は、西洋の文物に強い興味を持ち、その進んだ科学技術を積極的に取り入れて、製鉄や造船、紡績など殖産興業に努めたことで知られています。自らもオランダ語を学んで蘭学者たちと交流し、蘭書の翻訳に当たらせていました。その一人が箕作阮甫です。 嘉永元年(1848)、まだ世継ぎとして江戸にいた斉彬は、阮甫に『Volledige verhandeling over de stoomwerktuigen(水蒸機盤精説)』という本の翻訳を依頼しました。この本はオランダ人フェルダムが書いた蒸気機関の原理と仕組みを説明した専門書です。 19世紀、蒸気機関といえば当時、最高の科学技術を結集したもので、翻訳には語学力だけでなく、相応の知識も必要でした。目にしたこともない蒸気機関についての翻訳には、さすがの阮甫も苦労したことでしょう。それでも、翌年には翻訳を終え『水蒸船説略』と題してまとめています。 斉彬はこの翻訳書を参考にして、蒸気船や蒸気車の研究に取りかかりました。海外との交流が厳しく制限されていた鎖国下では外国人技師を招いて技術指導を受けることができず、書物に頼るほかなかったのです。嘉永4年(1851)に藩主になると、実用化をめざして本格的に研究開発を進めました。しかし、十分な資料も機械もない中での製作作業は困難を極め、しばしば阮甫にも理論的な質問をして協力を求めています。 安政2年(1855)、阮甫が専門書の翻訳を行ってから6年の月日を経て、ついに蒸気機関が完成します。斉彬はこれを小型船に搭載して隅田川で試運転を行い、成功しました。これが日本で最初の蒸気船「雲行丸」です。 後に長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダ海軍将校カッティンディーケは、雲行丸を見て多くの構造的欠点を指摘しながらも「実物を見たこともなく簡単な図面だけを頼りにこれを造り上げた人々の才能に脱帽せざるを得ない」と絶賛しました。こうした技術の導入を陰で支えたのが阮甫だったのです。
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