洋学博覧漫筆
しんげんかいず うだがわげんずい |
Vol.5 新元会図と宇田川玄随 |
▲「芝蘭堂新元会図」 (早稲田大学図書館所蔵) 今回は「新元会図」という蘭学者たちの宴会の絵を紹介しましょう。 時は寛政6年(1794)閏11月11日。当時江戸蘭学界の中心人物だった大槻玄沢は、太陽暦で正月を祝おうと家塾「芝蘭堂」に同志を招いて宴を催しました。そのときの楽しい様子を門人に描かせ、さらに参加者の賛(絵に添えた詩歌)を書き加えたのがこの「新元会図」です。別名「おらんだ正月」とも言われています。 この年の5月、玄沢は長年の念願がかない、長崎から江戸にやって来たオランダ人と初めて会うことができました。よほど感激したのか、対談の記録には「本懐の至り」とあります。そんなウキウキした気持ちから、この風変わりなパーティーを計画したのかもしれません。 では、もっとよく図を観察してみましょう。テーブルの上にはナイフとフォークがセットされ、ワイングラスのような物も見受けられます。これはまさに西洋料理風ではありませんか。 壁に目をやれば、何やら西洋人の絵が掛けられています。これは医学の神様ヒポクラテスとも、ドイツの外科医ハイステルとも言われていて、いまだ学会でもはっきりしていません。棚には、革で装丁された洋書や鵞管(羽ペン)らしき物も置かれています。 テーブルの周りには、主人の玄沢を始め稲村三伯ら名だたる学者29人が勢ぞろいです。その中にはロシア帰りの大黒屋光太夫の姿も。国禁を犯したため、そのころは江戸で軟禁状態でしたが、ロシア語が話せたので招待されたのでしょう。 実は、この会に津山藩医・宇田川玄随も招かれていました。中央にある柱の真下、黒い衣をまとって隣の人を指差している人物、これが玄随ではないかと言われています。 玄随は前年(寛政5年)から、10年もかけてようやく翻訳した日本初の西洋内科書『西説内科撰要』の刊行を始めていました。その事業は仲間たちから大変尊敬されていたのでしょう。祝宴の席の上座に座っていることから、そんなことを想像してしまうのです。
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