洋学博覧漫筆
かいぞう |
Vol.6 津山で行われた開臓 |
▲開臓の様子(推定模型) 津山洋学資料館に展示 江戸時代の人体解剖といえば、何と言っても『解体新書』翻訳のきっかけとなった江戸小塚原の腑分けが有名です。 当時の解剖は「腑分け」とか「開臓」などと呼ばれ、現代の進んだものとは違って、刑死体の臓器を観察する程度でした。しかし、それが次第に全国各地に広まるにつれ、臓器の働きを調べようと、実験に挑戦する医師も現れ始めました。 さて、小塚原の腑分けから21年が過ぎた寛政4年(1792)、藩主の参勤交代に伴ってお国入りした藩医・宇田川玄随の願いで、津山で初めての開臓が行われました。今から220年ほど前、場所は現在の伏見町の一角でした。 ちょうどこの年、玄随は10年に及ぶ西洋内科書『西説内科撰要』の翻訳を終えたばかりでした。江戸蘭学界で活躍する玄随が開臓を行うと聞いた他の津山藩医たちも、じっとしてはいられません。嶋崎周栄、河合玄碩、丹治隆玄、川嶋修安、遅れて井岡洞安の5人が参加を願い出ています。玄随の弟子だった町医者・田外玄洞と高畠道友も助手として参加を許されました。 10月19日の朝、刑場で処刑された囚人の遺体は牢屋へと運ばれ、いよいよ開臓が始められました。玄随はもちろん、ほかの医師たちも緊張と興奮で胸を高鳴らせながらそのときを迎えたことでしょう。 『町奉行日記』によれば、このとき使った道具は、玄随が自ら準備したようです。ということであれば、おそらくは玄随の指導のもと、江戸から持ち込んだ西洋の解剖学書とも比較しながら、かなり先進的な実験も試みたに違いありません。 立ち会った医師たちは大きな刺激を受けたようで、若い高畠道友は1年半後に玄随を慕って江戸に旅立っています。 この開臓で玄随が教えたのは、知識だけでなく、10年もの翻訳業を終えても衰えなかった学問への情熱だったのかもしれません。
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