津山洋学資料館

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箕作元八の西洋史研究

 

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洋学博覧漫筆

         みつくり げんぱち
Vol.52 箕作元八の西洋史研究

 

 

箕作元八

箕作秋坪の4人の息子のうち、長男・奎吾は早世しますが、二男・大麓は数学者、三男・佳吉は動物学者として活躍しました。今回は歴史学者となった四男・元八のお話です。
 文久2年(1862)、元八は湯島天神中坂下(現在の東京都文京区)にあった祖父・阮甫の家で生まれました。幼くして秋坪の私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学します。卒業後は東京大学理学部に進み、明治19年(1886)、25歳でドイツへ留学しました。
 元八は学生時代に動物学を専攻していたので、ドイツでもその研究を続けるつもりでした。ところが、視力が低下して顕微鏡を使う動物学の研究を続けることが難しくなってしまいます。そこで、子どものころから好きだった歴史学に転向したのでした。
 6年間の留学を終えて帰国した元八は、高等師範学校の教授を経て、第一高等学校の教授に就任します。明治32年(1899)から明治34年(1901)にかけて再びドイツへ留学し、その後、日本へ戻ると東京大学の教授への就任を命じられました。
 元八が刊行した歴史学書は、専門書としては珍しく多くの人に読まれたそうです。中でも晩年に刊行した『仏蘭西大革命史』は、日本で最初の学術的なフランス革命史として高く評価されています。大正8年(1919)、元八は脳溢血のため58歳で急逝します。
 元八が没して53年後の昭和47年(1972)、再び元八の名前が脚光を浴びることになります。それは、アメリカの新聞紙・ニューヨークタイムズが昭和天皇の単独会見を行い、その記事で「無数の人々から知的影響を受けたが、最大の影響を受けたのは、日本の英雄でも天皇でもまた著名な科学者でもなく、箕作元八という教授だと語られた」と掲載したためです。
 このような明治期における箕作家の人々の活躍の背景には、宇田川玄随に始まり、玄真・榕菴、そして、箕作阮甫・省吾・秋坪へと、江戸時代から続いた津山洋学の系譜があります。そして宇田川家、箕作家の活躍に刺激されて洋学を志し、ふるさと津山から世界へと飛躍した人物も数多くいます。

 日本の近代化を振り返る時、未知なる学問への挑戦を続けた津山の洋学者たちの功績を忘れることはできないのです。

 

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