津山洋学資料館

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『蘭学重宝記』の秘密

 

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洋学博覧漫筆

 

            らんがくちょうほうき
Vol.17 『蘭学重宝記』の秘密

 

蘭学重宝記』(右)と

榕菴自筆原稿のオランダ地図(左)

 

(左:津山洋学資料館寄託資料

右:武田科学振興財団杏雨書屋所蔵)

 

江戸時代には、暮らしに役立つ知識をまとめたさまざまな「重宝記」が刊行されました。多くは家事や文章、詩などについてのものでしたが、蘭学について解説したものもあったのです。

 天保6年(1835)に刊行された『蘭学重宝記』は、西暦と和暦の対照表やオランダの地図、曜日や星座など、蘭学を学ぶうえで便利な知識が集められています。

 この重宝記の著者を見ると賀寿麻呂大人、校閲は篤麻呂大人と、一風変わった名前が記されています。実はこの賀寿麻呂大人は、津山藩の洋学者・宇田川榕菴なのです。榕菴の榕の字は、クワ科の熱帯樹ガジュマルのことなので、それに漢字を当てて「賀寿麻呂」としたのでした。版元になっている「観自在楼」とは、榕菴の書斎「観自在菩薩楼」の略称で、榕菴の原稿にはこの重宝記の下書きが残されています。

 一方、校正を行った篤麻呂大人ですが、シーボルトではないかと思われます。シーボルトの名前は「西乙福児篤」や「斯勃慮篤」など多くの当て字がありますが、榕菴の記録にも「斯伊勃慮篤」とあります。「麻呂大人」は「賀寿麻呂大人」と合わせたものなので、末尾の「篤」一文字を用いてシーボルトを表したと考えられます。

 どうして榕菴は、名前を伏せてこの書を刊行したのでしょうか。文政9年(1826)、榕菴は江戸に来て親しく交流したシーボルトのことを「知識が豊かで多くの物事に通じ、交際していると得ることが多い」と尊敬を込めて書き残しています。

 その2年後、シーボルトは帰国する際に日本地図などの禁制品を持ち出そうとしたことが露見して国外追放となり、関与した洋学者ら50人余りも処罰されてしまいました。これが有名なシーボルト事件です。

 7年前の事件とはいえ、シーボルトの名前を入れた本を刊行すると、どんな危険がふりかかるかしれません。しかし、榕菴は敬愛するシーボルトと連名の本をどうしても刊行したかったのでしょう。この不思議な名前には、そう考えた榕菴の秘策がうかがえるのです。

 

 

 

 

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