洋学博覧漫筆
しゅうへい めいろくしゃ |
Vol.46 秋坪と明六社 |
▲『明六雑誌(復刻版)』 (津山洋学資料館所蔵) 箕作秋坪の業績で忘れてはならないのが、日本で最初の学術結社・明六社に参加して、近代的思想の普及に努めたことです。 明六社は、明治6年(1873)に森有礼が主唱して結成されました。公使としてアメリカへ渡った森は、帰国後「日本もアメリカのように学者が結社を作って互いに学術を研究し、人々の利益になることをすべきだ」と考えたのでした。 設立にあたって、森と、森から相談を受けた西村茂樹は、当時、第一線で活躍していた知識人たちに参加を呼びかけています。その中の一人が秋坪でした。その他には福沢諭吉・中村正直・加藤弘之・西周・杉亨二、津山からも津田真道・箕作麟祥の二人が結成の会員として名を連ねました。初代の社長には森がつきましたが、2代目には会員から推されて秋坪が就任しています。 明六社では毎月2回、会合を開いて会員が意見を交換し、後には公開演説会も行うようになりました。また、明治7年(1874)4月からは機関誌『明六雑誌』の刊行を始めます。これは約20ページの小冊子でしたが、政治や法律、外交、経済、社会、哲学、教育など、広い分野にわたって会員が自分の考えを論述しています。そして、この機関誌の発行部数は約3,200部で、当時としてはとても多く、このことから人々がどれだけ新しい社会づくりに関心を抱いていたかが分かります。 秋坪は明治7年5月に発行された第8号に「教育談」という約6ページの論文を投稿しています。この中で秋坪は、幼児の家庭教育の重要性を説き、さらに師となる父母の教育も必要と考え「女子教育を振興すべきだ」と主張しています。末尾では「女子教育が欠くことのできないことの説明は、次号に掲載する」と書いていますが、なぜか続編が掲載されることはありませんでした。 明治8年(1875)6月、政府が讒謗律と新聞紙条例を制定して言論・出版の取り締まりを強化したため、秋坪や福沢諭吉らの意見で、同年11月の第43号を最後に『明六雑誌』は廃刊となりました。 明六社は、明治12年(1879)に「東京学士会院」が創設されると、その役割を譲って自然消滅しました。結成してからの活動期間は決して長くありませんでしたが、明治初期の開明的思想の普及に貢献し、日本の文化史上に大きな足跡を残しています。
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