洋学博覧漫筆
しゅうへい |
Vol.48 秋坪の手紙 |
▲箕作佳吉宛て箕作秋坪書簡 (津山洋学資料館所蔵) 箕作秋坪は阮甫の三女つねとの間に、奎吾・大麓・佳吉・元八という4人の息子を授かりました。つねが39歳で病没した後、つねの妹ちまと再婚し、一人娘の直をもうけています。 私塾・三叉学舎を開き教育者でもあった秋坪の家庭での教育は、厳しかったといいます。そのかいあってか、息子たちは4人とも海外留学を果たし、直は、人類学者として東京大学教授を務めた坪井正五郎に嫁いでいます。 長男の奎吾と次男の大麓は、慶応2年(1866)に幕府の留学生に選ばれ、イギリスへ渡ります。そのとき二人は、15歳と12歳でした。二人は2カ月もの船旅をしてロンドンに到着し、ユニバーシティ・カレッジスクール中学校へ入学します。しかし、幕府が倒れたため、1年余りの滞在で帰国を余儀なくされてしまいます。 奎吾は帰国後、大学校(後の東京大学)に勤めますが、程なく辞任して、秋坪を手伝い三叉学舎で教鞭をとりました。ところが、明治4年(1871)6月、隅田川で遊泳中に溺れて20歳の若さで亡くなっています。 大麓は明治3年(1870)、明治政府の命を受けて、再びイギリスへ渡ります。さらにその3年後には、17歳になった三男の佳吉がアメリカへ留学しました。二人の留学期間は長く、大麓は7年半後の明治10年(1877)に、佳吉は8年後の明治14年(1881)に帰国しました。 四男の元八は明治19年(1886)にドイツへと出発し、それを見送った3カ月後に秋坪は他界したのでした。 以前、津山洋学資料館に寄贈された資料の中から秋坪が留学中の佳吉へ送った手紙5通が発見されました。その内容を見ると、佳吉が元気で勉学に励んでいることを喜び、家族の近況を知らせ、学問や生活への助言を細かに書き送っているものでした。帰国が決まったころの手紙には「当年中には帰国の由、皆指折り数えています」とあり、帰りを待ちわびている父親の姿が思い浮かばれます。 日本の近代化を支えた多忙な日々の一方で、秋坪と子どもたちが共に過ごせた時間は、そう長くはなかったことでしょう。そういった環境にあっても、これらの手紙の行間からは、秋坪から子どもたちへの慈愛が伝わってくるのです。
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