洋学博覧漫筆
げんしん いはんていこう |
Vol.9 玄真と『医範提綱』 |
▲『医範提網』と「内象銅版図」 (津山洋学資料館所蔵) 宇田川家を相続した玄真は、玄随が手がけていた西洋内科や薬学の研究を引き継ぎます。その中で「内科治療をするにも薬の処方をするにも、まずは体内の構造を知らなければならない」と考えるようになりました。西洋の医術は、人体の器官と働きを明らかにし、それによって病気の原因や治療法を探っていたからです。 そこで、人体の構造を研究しようと西洋の名医の本を数冊翻訳し、要点を簡単にまとめて文化2年(1805)に刊行したのが『医範提綱』(3冊)です。 この書は、解剖学だけでなく生理学や病理学も盛り込まれ、仮名交じりの文章で分かりやすく書かれていました。そのため、西洋医学の入門書として重宝され、何度も版を重ねたのでした。明治になっても、医学校で教科書に使われたといいます。西洋医学の知識を広めたこの書が医学の発展に果たした役割は大きく、現在も使われている身体器官の名前には、この書で定着したものがいくつもあります。 たとえば『解体新書』では「厚腸」「薄腸」と訳されていたものを、この書で初めて「大腸」「小腸」と言い換えました。また、リンパ腺の「腺」や膵臓の「膵」は中国で作られた漢字ではなく、実は玄真が器官の働きを考えて新しく作った文字(国字)なのです。「腺」の字は、今では逆に中国でも使われています。 3年後にはさらに付図の「内象銅版図」を刊行しました。これは日本で初めての銅版解剖図といわれ、有名な銅版師・亜欧堂田善の手で西洋医学書の精巧な解剖図が再現されています。この図も大変な評判となりました。 この書の刊行にあたり、津山藩主・松平斉孝は「後進の手本になる書物を作った」とほめ、出版資金を貸しています。玄真は医学書の翻訳・刊行を通して西洋医学を志す人の道を開くという大きな功績を残しているのです。
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