洋学博覧漫筆
ばんしょしらべしょ |
Vol.33 蕃書調所の創設 |
▲蕃書調所で用いられた 箕作阮甫翻刻の『和蘭文典』 (津山洋学資料館所蔵) アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンとの外交交渉に奔走した箕作阮甫は、相次いだ激務のせいか体調を崩し、安政2年(1855)4月に家督を養子の秋坪に譲り、隠居しました。 一方で、開国という変革を迎えた幕府は、それに対応できる人材の育成が急務となっていました。そこで幕府は洋学の研究と教育のための機関、洋学所を設立しようと計画します。そのためには翻訳力に優れ、外国事情にも通じた阮甫の力が不可欠となり、隠居して数カ月で再び召し出されることになったのでした。 洋学所の頭取を命じられたのは儒学者の古賀謹一郎でした。阮甫より17歳年少の古賀は特に阮甫を頼りにして「洋学所の件を一身に引き受けてとても当惑しています。内々に話したいこともあるので、訪ねてきてもらえないでしょうか」という相談の手紙を書き送っています。 11月になって古賀は「研究用の洋書を充実させること」「技術教育のための実験場を設けること」「幕府の家来だけでなく、有志のものには入学を許すこと」などを盛り込んだ創設案を老中の阿部正弘に提出しますが、その作成には阮甫が大いに協力したと考えられます。 安政3年(1856)4月、阮甫は杉田玄白の孫の杉田成卿とともに教授職を命じられ、そのほかにも教授の補佐をする教授手伝や書生の指導に当たる句読教授など、十数人の職員が登用されます。そして翌年1月、正式名称を蕃書調所と改め、盛大な開所式が催されました。1,000人の希望者の中から、幕臣とその子弟191人が入学し、その翌年からは、大名の家来である陪臣とその子弟にも入学が認められました。阮甫は教授たちを指導する立場で、実際に書生に教えるのは句読教授たちでしたが、しばしば地理や歴史の講義を行ったといいます。 蕃書調所は、後に洋学所、開成所、さらに明治維新後には開成学校、大学南校と名前を変えて、明治10年(1877)に日本で初めての近代的な大学となる東京大学になります。そのため、阮甫は「大学教授の第一号」といわれているのです。
|
< 前号 | 記事一覧 | 次号 > |