洋学博覧漫筆
ばしょわげごよう |
Vol.29 蕃書和解御用への登用 |
▲安政元年(1854)に刊行された 『海上砲術全書』 (津山洋学資料館所蔵) 箕作阮甫が活躍したのは『解体新書』が刊行されてから60年余りが過ぎたころです。日本の近海にアメリカやロシア、イギリスなどの船がたびたび現われるようになり、人々の目は次第にこれらの国々へと向けられていきました。 天保10年(1839)5月、海外の情勢を研究していた田原藩(現在の愛知県)家老の渡辺崋山と蘭学者の高野長英が、外国船を大砲で打ち払うという幕府の政策を批判したとして捕えられます。渡辺崋山は国元に蟄居(謹慎)、高野長英は永牢(終身刑)となり、二人と親交のあった蘭学者の小関三英は、処罰を恐れて自殺してしまいます。 「蛮社の獄」といわれるこの弾圧事件は、蘭学者たちに大きな衝撃を与え「自分たちも取り調べを受けるのではないか」と、恐々とした日々を過ごすことになりました。阮甫も不安を感じながら、それでも蘭学の研究をやめることはありませんでした。そんな阮甫を家族は心配して、蘭書を音読していると、声を低くするようにいさめたり、まだ幼かった娘は口を覆おうとして手を広げて走り寄ったといいます。 そうして1カ月ばかり過ぎたころ、阮甫は幕府の蕃書和解御用に任命されました。蕃書和解御用は、外国の手紙や書物を翻訳するために設けられた役職で、津山藩では阮甫の師の宇田川玄真、その養子の榕菴も務めています。自殺した小関三英もまた和解御用の一員だったため、翻訳に差し支えた幕府が阮甫を召し出したのでした。 阮甫の登用によって、幕府の弾圧を恐れていた蘭学者たちは一安心したことが、この頃阮甫が国元に送った手紙に記されています。 和解御用に出仕するようになった阮甫は、さまざまな文書の翻訳に従事し、天保14年(1843)には榕菴らと協力してオランダの兵書「海上砲術全書」を訳しています。 ちょうどこのころから、阮甫は医学だけでなく語学や世界地理、歴史などへも関心を広げ、さまざまな分野の書物を翻訳していきます。そしてこの後、身につけた豊かな海外の知識が評価され、アメリカやロシアとの交渉の場において活躍することになるのです。
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