洋学博覧漫筆
げんずい げんしん |
Vol.7 玄随と玄真の出会い |
▲宇田川玄真肖像画 (武田科学振興財団杏雨書屋所蔵) 宇田川玄随の没後、その跡を継いだのは養子の宇田川玄真(榛斎)です。今回は、若き日の玄真が初めて玄随に出会ったときのエピソードを紹介することにしましょう。 玄真は旧姓を安岡といい、明和6年(1769)、伊勢国(今の三重県)で生まれています。若くして漢方医を志した彼は、漢方医学の古典『傷寒論』に自分なりの解説を加えたものを携え、江戸に出て名医を訪ね歩いていました。 二人の初めての出会いは、当時、津山藩江戸屋敷で西洋内科書の翻訳に取り組んでいた玄随を22歳の玄真が訪ねたことに始まります。 玄真がいつものように持参した『傷寒論』を差し出すと、玄随は書名と最初の数枚を開いただけで見るのをやめてしまいます。不愉快に思った玄真が「私が若いと見て、軽んじておられるのですか」と詰め寄ると、玄随は「傷寒論は既に読み尽くした。今の私には不要だ」と言います。納得がいかないので「では、治療はどの本を頼れば良いのですか」と問い返すと、玄随は「五臓六腑(内臓のこと)にはそれぞれの働きがあり、それを知らなければ病気の原因も分からず、一体どうやって薬を与えるのか」と言って、西洋医学の説を熱く語り始めました。 しばらくは耳を傾けていた玄真ですが、プライドを傷付けられたことにいたたまれなかったのか、突然立ち上がると外へ飛び出してしまいます。しかし、冷静になってよくよく考えてみれば、玄随が言うことにも一理あります。そこで『傷寒論』を破り捨て、取って返して玄随に入門することを決意したのでした。 それからしばらく、宇田川門下生として漢学や蘭学の基礎について学んでいた玄真でしたが、玄随が参勤交代のお供で江戸を離れることになってしまいます。そこで、その才能を見抜いた玄随の勧めにより、蘭学の大家として知られる大槻玄沢や桂川甫周の屋敷にも出入りするようになります。ちょうどそのころ、年老いて生まれた実子の後見役を迎えたいと考えていた杉田玄白は、玄沢らの推挙もあって、玄真と父子になることを約束したのでした。 玄随との出会いからわずか数年で、蘭学界の大御所杉田玄白の養子になるという幸運をつかんだ玄真。やがては宇田川家を継ぐことになるのですが、その成り行きについては次回に触れたいと思います。
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