津山洋学資料館

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箕作秋坪の生い立ち

 

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洋学博覧漫筆

 

           みつくりしゅうへい
Vol.39 箕作秋坪の生い立ち

 

箕作秋坪

(津山洋学資料館所蔵)

 箕作阮甫は、娘婿の省吾を病気で亡くした後、弟子の菊池秋坪を次の養子に迎えました。今回は、その秋坪の生い立ちについて紹介しましょう。

 文政8年(182512月、秋坪は備中国下呰部(現在の真庭市下呰部)にあった学校「教諭所」で、学監(副責任者)をしていた菊池文理の二男として生まれました。地域を回って人々を教化していた文理は、温和な人柄で尊敬されていたといいます。ところが、秋坪が13歳の年、文理は39歳の若さで亡くなってしまいます。秋坪の兄も早くに亡くなっていたため、秋坪と母と妹は地域の人々に支えられながら、そのまま呰部で暮らすことになりました。

 天保12年(1841)、17歳になった秋坪は、父の友人であった津山藩に仕える儒学者・稲垣研嶽に引き取られ、津山へ移り住みます。そこで漢学の基礎を習得すると、父と研嶽の師匠である儒学者の古賀侗庵を頼って江戸へ上り、儒学を学ぶことにしました。

 しかし、このころは相次ぐ外国船の来航で蘭学の需要が高まりつつあり、時勢を察した侗庵は秋坪に蘭学を学ぶよう勧めます。こうして弘化3年(1846)、22歳の秋坪は阮甫に教えを請うことになったのです。

 阮甫の下で勉学に励んだ秋坪は、その向学心を見込まれて阮甫から養子になるよう勧められました。嘉永2年(1849)、秋坪は大坂にある緒方洪庵の適塾に入門します。適塾の記録には「箕作阮甫の義子」と書き添えられているので、このときには、もう養子の話が内々に決まっていたのでしょう。阮甫と洪庵は、宇田川玄真の下で学んだ兄弟弟子だったので、阮甫も信頼して洪庵に秋坪を託せたのです。このころに阮甫が秋坪に送った手紙には、しっかり勉学を修めることを願った、温かい言葉がつづられています。

 嘉永4年(1851)、2年間の修業を終えて無事に江戸へ戻った秋坪は、阮甫の三女つねと結婚し、新進の医師として活躍を始めます。そのわずか2年後、浦賀にペリーが来航し、日本は開国への道を歩み始めます。そして秋坪も、その時代の流れに直面していくことになるのです。

 

 

 

 

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