津山洋学資料館

>
>
阮甫と4人の娘たち

 

→リンク

 

 
 
 
  休館日

 

 

 

 

洋学博覧漫筆

 

           げんぽ
Vol.36 阮甫と4人の娘たち

 

箕作阮甫没後50年祭

  (津山洋学資料館所蔵)

箕作阮甫は23歳のときに津山藩の儒学者・大村成夫の養女「とゐ」と結婚しました。二人の間には4人の娘が生まれ、次女は幼くして亡くなりますが、3人が健やかに育ちました。

 長女「さき」(後にせき)が誕生したのは、文政6年(1823)、阮甫が3年間の江戸詰を命じられて、津山を出発したわずか8日後のことでした。「とゐ」と「さき」は養父の大村成夫方に預けられました。阮甫は江戸で勉学に励みながらも、しばしば妻子のことを語っていたといいます。4年後に阮甫が国元に戻り、ここでようやく家族一緒に暮らせるようになったのでした。

 天保2年(1831)、再び江戸詰を命じられた阮甫は、今度は家族を伴って江戸へ向かいます。このとき「さき」が9歳、三女の「つね」は4歳でした。その頃の箕作家の暮らしぶりは苦しく、娘たちも家事をよく手伝ったといいます。

 やがて成長した「さき」は18歳で婿養子を迎えますが、性格が合わなかったのかすぐに離縁し、後に江戸詰の広島藩医・呉黄石に嫁ぎました。黄石は阮甫らが種痘所を設立したときに一緒に尽力した蘭方医で「さき」との間に3男4女をもうけています。

 江戸で生まれた四女「しん」(後にちま)は阮甫の門人の佐々木省吾を婿養子に迎え、一人息子の貞一郎(麟祥)が生まれました。「つね」もまた阮甫の門人の菊池秋坪を婿養子に迎え、奎吾、大六(大麓)、佳吉、元八という4人の息子が生まれます。幕末から明治にかけて海外へ留学した彼らは、日本の近代化に大きく貢献しました。そして彼らの子どもたちからも、多くの学者が生まれています。

 明治45年(1912)6月、東京上野精養軒で阮甫の没後50年祭が行われました。参加した近親者53人の中には大麓、元八をはじめ、憲法学者の美濃部達吉、物理学者の長岡半太郎、後に地質学者として活躍する坪井誠太郎や、東京都知事になる美濃部亮吉らの若き日の姿もあります。

 明治から大正、昭和にかけて活躍する学者を多く生み出したことから「箕作の血は学者の血」とまで言われました。そのルーツをたどれば、津山で生まれた箕作阮甫がいるのです。

 

 

 

 

< 前号 記事一覧 次号 >