津山洋学資料館

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阮甫とお玉ヶ池種痘所

 

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洋学博覧漫筆

 

           げんぽ   おたまがいけしゅとうしょ
Vol.34 阮甫とお玉ヶ池種痘所

 

お玉ヶ池種痘所跡に建つ碑と種痘の様子

『種痘伝習録』津山洋学資料館寄託資料)

江戸時代に猛威を振るった伝染病の一つに天然痘があります。感染しやすいうえに死亡率が高く、古くから不治の病として恐れられていました。

 1796年、イギリスの医師ジェンナーは牛痘(牛の天然痘)を人体に接種してその後の感染を防ぐ牛痘種痘法を発見します。この方法はとても効果があり、蘭方医たちの間に知識が広まっていました。しかし、肝心の痘苗の効果が日本まで運ぶ途中に失われてしまうのです。何度も失敗を繰り返して、嘉永2年(1849)にようやく痘苗が長崎へ届けられました。

 種痘の実施には、西洋医学に不信を抱く漢方医たちの反対もありましたが、わずか半年で各地に広められていきました。津山でも嘉永3年(1850)に藩医の野上玄雄らが種痘を始め、万延元年(1860)には二階町に種痘所が開かれます。

 一方で、漢方医たちの抵抗が特に強かった江戸では、なかなか種痘が広まらずにいました。安政4年(1857)6月、津山藩医の箕作阮甫は蘭方医の伊東玄朴、戸塚静海らとともに大槻俊斎の屋敷に集まり、江戸にも種痘所を設立しようと相談します。

 2カ月にわたる協議の結果、勘定奉行の川路聖謨に協力を依頼し、川路の名前で幕府に願書を提出することになりました。川路は、ロシア船が来航して阮甫が長崎に赴いたときの上司で、海外事情にも詳しく、阮甫をとても信頼していました。種痘所の設立には、この二人の信頼関係が大きな役割を果たしたと考えられます。

 翌年1月に設立が認可されると、江戸や近郷の蘭方医が資金を出し合い、薬商人の援助を受けて、5月7日に神田お玉ヶ池にあった川路の拝領地に種痘所が開かれました。そのとき、阮甫は先頭に立って尽力したようで、設立人の名簿には筆頭に名を連ねています。

 お玉ヶ池種痘所は開設してわずか半年後に大火で焼失しますが、場所を移して活動を続けました。万延元年(1860)には幕府の直営となり、西洋医学の学校兼病院として発展し、明治10年(1877)に東京大学医学部となります。阮甫は東大医学部の始まりにも深くかかわっているのです。

 

 

 

 

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