洋学博覧漫筆
ようあん |
Vol.19 榕菴のコーヒー研究 |
▲榕菴の描いたコーヒーカン (コーヒーの煮出し器)の図 (武田科学振興財団杏雨書屋所蔵) と津山洋学資料館展示の復元品 カフェオレやエスプレッソ、カプチーノなど、今ではさまざまな種類があり、食生活に欠かせなくなったコーヒー。その日本への伝来については諸説がありますが、江戸時代の初めごろにオランダ人が出島に持ち込み、出島に出入りする通詞(通訳)や役人もコーヒーを飲んでいたことが『和蘭商館日記』などに記されています。 さて、このコーヒーに興味を持ったのが津山藩の洋学者・宇田川榕菴です。榕菴はわずか19歳で「哥非乙説」という論文を書いています。当時まだ一般の人が口にすることのほとんどなかったコーヒーを、榕菴はいつ飲んだのでしょうか。 「哥非乙説」をまとめる2年前、榕菴は養父の玄真とともに、将軍に拝謁するために江戸へやって来たオランダ商館長と面談をしています。こうした江戸参府の時にお土産としてコーヒーを贈ることがあったようで、この時榕菴もコーヒーを口にするチャンスに恵まれたと考えられます。きっと独特の色と香りに驚きながら飲んだに違いありません。 後に玄真と榕菴は、幕府の仕事でフランス人ショメールが書いた『家庭百科事典』(オランダ語版)の翻訳に携わることになります。その訳本『厚生新編』の中のコーヒーの項目を担当した玄真は、榕菴の考えとして「えごの木と、図で見るコーヒーの木は形状がよく似ていて、味は淡白、微甘、油気が多く西洋の船がもたらすコーヒー豆と異ならない」と書き加えています。実験を大切にする榕菴らしく、他の植物と比べたり、またそれを実際に食べてみたりと、詳しく調べていたことが分かるのです。 榕菴とコーヒーとのつながりはそれだけではありません。「珈琲」の当て字は、榕菴が考えたものといわれているのです。昭和初期に研究家がまとめたコーヒーの異名・熟字の一覧には「珈琲」について「宇田川榕菴自筆蘭和対訳辞書ヨリ。現代の【珈琲】の字は榕菴の作字なりし」とあります。作字とは、文字を新しく作ることです。しかし、「珈」も「琲」も旧来からある漢字なので、正確には字を当てた、ということなのでしょう。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されており、コーヒーの項目に「骨喜」「哥兮」などとともに「珈琲」の字があるのを確認できます。 コーヒーは幕末に正式に輸入されるようになり、明治以降次第に人々の暮らしの中に広まっていきます。道端の自動販売機で手軽にコーヒーを買える今日の様子は、さすがに榕菴も想像できなかったことでしょう。
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