津山洋学資料館

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秋坪の晩年

 

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洋学博覧漫筆

 

          しゅうへい
Vol.47 秋坪の晩年

 

箕作秋坪肖像画 川村清雄画

 (津山洋学資料館所蔵)

 明治維新の後、箕作秋坪は政府からの出仕の求めを断り、一度はすべての公職から身を引きます。しかし、その後も再三の要請があり、明治8年(1875)、官立の東京師範学校の摂理(校長)に就任したのでした。

 明治政府にとって大きな課題の一つが、教育制度の整備でした。明治5年(1872)8月には学制が公布され、小学・中学・大学という学校制度が定められますが、その実施に伴い、近代的な教育手法に対応した教員の養成が急務となりました。そこで、小学校の教員を養成する学校として同年5月に設立されたのが東京師範学校でした。

 在職中の最も大きな業績は、秋坪自身の建議によって、明治8年8月に中学校の教員を養成するための中学師範学科を創設したことです。学制では中学校の教員は大学で免状を得た人がつくと定められていましたが、このときまだ学制に基づいた大学がありませんでした。そこで、この学科を設置することを考えたのです。中学師範学科は、後に独立して高等師範学校となり、東京教育大学を経て、現在は筑波大学となっています。

 秋坪は明治11年(1878)に摂理を辞任し、翌12年(1879)には国立科学博物館の前身である教育博物館の館長に就任します。明治18年(1885)からは図書館長も兼任しますが、翌年、願い出て辞任し、その年の12月3日に、腸チフスのため63歳でその生涯を閉じました。

 秋坪と親交の深かった教育者・中村正直が書いた秋坪の墓誌には、その人柄について「慎み深く、言動は疎かでなく、虚飾を退け、浪費を戒めた」と刻まれています。津山藩主の松平斉民(確堂)もそうした秋坪の人柄を信頼し「言葉と行動が違わないのは、ただ秋坪だけである」といつも周囲の人に語っていたといいます。

 急激に世の中が変化した幕末から明治にかけて、時代の大きなうねりの中で自らの役目を果たした秋坪の功績は、日本の近代化の礎となったのです。

 

 

 

 

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