洋学博覧漫筆
げんぽ |
Vol.30 阮甫の西洋史研究 |
▲『八紘通誌』 (津山洋学資料館所蔵) 箕作阮甫が翻訳した本は、刊行されなかったものも含めると99部160冊余りもあり、積み上げると背丈の高さを超えたといわれています。阮甫は藩医ですから最初は医学書を翻訳していましたが、語学や西洋の地理、歴史、兵学、地質学、天文学など幅広い分野へも興味を広げていきました。 その中でもとりわけ力を入れていたのが、地理と歴史の研究です。阮甫は、幕府の蕃書和解御用を務めていたので、幕府の所蔵する蘭書を見ることができました。また、自分でも長崎から高価な地理書を取り寄せて、熱心に研究したといいます。 阮甫の養子になった省吾も地理を学び、阮甫と協力しながら弘化元年(1844)に世界地図の『新製輿地全図』、翌年にはその解説書として『坤輿図識』を刊行しました。しかし、執筆の無理がたたってか、結核を患った省吾はわずか25歳で亡くなってしまったのです。 省吾の将来を期待していた阮甫は大変なショックを受けますが、その後も研究を続け、嘉永4年(1851)には『坤輿図識』の不備を補った地理書『八紘通誌』を刊行しました。その他にも、中国(清)で出版された世界地理書『海国図志』に返り点などの訓点をつけ、読みやすくして出版しています。 さらに嘉永3年(1850)ごろには、西洋史を研究するサークルを作り、しばしば阮甫の家で研究討論したと伝えられています。刊行されることはありませんでしたが、偉人の伝記を集めた「西史外伝」や「大西史影」「大西大事策」「大西春秋」など、ヨーロッパの歴史を翻訳した原稿を数多く残しました。それまで本格的な西洋史の研究は行われていなかったことから「西洋の歴史は箕作阮甫によって日本に紹介された」ともいわれています。 阮甫がこうした研究に熱心に取り組んだのは、世界の情勢や各国の実体を正しく知らなければならないと考えたからでした。欧米列強の船が次々と近海に現れる中で、日本の現状に対する危機感が阮甫の心を駆り立てていたのかもしれません。
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