津山洋学資料館

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『和蘭薬鏡』と『遠西医方名物考』

 

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洋学博覧漫筆

 

            オランダやっきょう    えんせいいほうめいぶつこう
Vol.10 『和蘭薬鏡』と『遠西医方名物考』

 

遠西医方名物考』と『和蘭薬鏡』

 (津山洋学資料館所蔵)

宇田川家は玄随の代から西洋内科を専門にしていますが、内科の治療には薬が欠かせません。今回は、玄真が刊行した薬学書『和蘭薬鏡』と『遠西医方名物考』を紹介しましょう。

玄随が『西説内科撰要』で初めて日本に西洋内科を紹介してから、次第に内科を専門とする医師が誕生してきました。しかし、治療に使う西洋の薬の知識が乏しく、思うように治療できない医師たちはもどかしく感じていたといいます。もちろん玄随も薬学の必要性に気づいて研究を始めていましたが、志半ばで亡くなってしまいます。その遺志を継いだのが玄真でした。

 玄真は博物学や薬学の本20数冊を翻訳すると、西洋の薬を日本や中国にある薬と照合していきました。その内容をまとめた稿本は数十冊に達したといいます。玄真の養子となった榕菴がそれに校訂を加え、文政3年(1820)、初めて本格的に西洋の薬物を紹介した『和蘭薬鏡』(3巻)を刊行しました。

 次いで2年後に刊行した『遠西医方名物考』は全部で36巻もありましたが、文政8年(1825)までのわずか3年間ですべてが刊行されています。この書には西洋の薬物が名前のイロハ順に記載され、産地や形、作り方、薬効、用い方がまとめられていました。日本にない薬は性質を調べ、代用できるものがあれば挙げています。そのため、西洋の薬学を集大成した書として広く普及しました。

 書の冒頭には「舶来の薬品は手に入れにくいがその効果が明らかになり、人々が求めるようになれば、必ず身近な薬となるだろう」とあります。その言葉どおりに広まっていった薬も少なくなかったことでしょう。

 天保5年(1834)からは、榕菴が中心となって同書の補巻『遠西医方名物考補遺』(9巻)を刊行します。この補巻には「元素編」があり、窒素や酸素、炭酸についても紹介されました。こうした化学や薬の原料となる植物の研究は、榕菴によってさらに深められていくことになるのです。

 

 

 

 

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