津山洋学資料館

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箕作省吾の生い立ち

 

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洋学博覧漫筆

 

             みつくりしょうご
Vol.37 箕作省吾の生い立ち

 

新製輿地全図」と『坤輿図識

   (津山洋学資料館所蔵)

 

 

津山藩医・箕作阮甫の養子となる省吾は、文政4年(1821)に水沢藩(現在の岩手県)藩士・佐々木秀規の二男として生まれました。13歳で蘭方医の坂野長安に入門して蘭学を学び始めますが、2年後に相次いで両親が亡くなったため、長安に引き取られることになりました。

 1617歳のころでしょうか、省吾は長安の下を辞して江戸に遊学し、さらに西へと足を伸ばして京都など関西方面を訪ね歩きました。各地の名勝や史跡をはじめ、地形や交通、産業、風俗などに触れて、地理学に興味を抱くようになったといいます。

 郷里に帰った省吾は再び長安の下で教えを受けますが、講義の中で長安が何度も「これは阮甫の説だ」と言うので、省吾がそれは一体誰のことかと尋ねたそうです。江戸で活躍する箕作阮甫先生のことだと教えられ、ぜひとも直接教えを請いたいと思った省吾は、再び江戸へ出て鍛冶橋の津山藩邸へ赴き、阮甫に入門を願ったのでした。

 そのころ、阮甫は藩医のかたわら、あらゆる分野の蘭書を翻訳していました。その中でも、特に力を入れていたものの一つが地理学です。同じように地理に興味を抱いていた省吾は、阮甫の下で熱心に研究に励みました。やがて阮甫はその人柄と学才を認め、自分の後継ぎにしたいと思うようになります。

 天保13年(184212月、22歳になった省吾は阮甫に「役介(居候のこと)」という名目で引き受けられ、箕作姓を名乗ることを許されます。そして2年後の弘化元年(1844)2月、正式に養子となり、阮甫の末娘「しん」と結婚したのでした。

 同じ年、省吾は世界地図「新製輿地全図」を刊行します。さらに翌年からは、同地図の解説書『坤輿図識』の刊行を始めました。本書は、幕末に活躍する志士たちに大きな影響を与えることになるのですが、同時に省吾の命を縮める結果にもなってしまうのです。

 

 

 

 

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