洋学博覧漫筆
しゅうへい さんさがくしゃ |
Vol.45 秋坪が開いた三叉学舎 |
▲三叉学舎塾生姓名 (出典「興斎交遊録」武田科学 振興財団杏雨書屋所蔵) 右から3番目に東郷平八郎の 名前があります 箕作秋坪は、明治元年(1868)に、浜町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)にあった津山藩江戸屋敷の一角を借りて、私塾「三叉学舎」を開きました。塾名の由来は、藩邸の辺りで、隅田川が三つに分かれていて、三叉と呼ばれていたことにちなみます。 三叉学舎では、主に漢学や数学、そして英語が教えられました。幕末にはオランダに代わって、アメリカやイギリスなどの国が台頭し、英語の習得が急務になっていました。それにいち早く気づいた秋坪は英語を課目に加えたのでした。このころ、東京には、英学塾が数カ所開かれています。その一つが福沢諭吉が開いた慶応義塾で、当時、三叉学舎と慶応義塾は「洋学塾の双璧」と称されていました。 津山出身で早稲田大学の学長などを務めた平沼淑郎は、9歳で上京して、三叉学舎に入塾しました。淑郎の自叙伝「鶴峯漫談」には三叉学舎での学習方法が詳しく記されています。それによると、最初は2歳年上の秋坪の四男・元八から英単語を、その後、別の上級生について文法を学びました。勉強が進むと、何人かの仲間で、順番に英文の読解をして、塾生同士がそれに質問するという輪講を行い、上級生がその正誤を判断して点数をつけていました。塾生同士が行う質問もとても難しかったようで「十分な予習をしていなければならず、戦場に出るような真剣さで教室に出なければならなかった」と思い出をつづっています。 明治5年(1872)には学制が発布され、次第に教育制度が整備されていきます。それに伴い、英学塾も徐々に姿を消していきました。三叉学舎がいつまで存続したかは明らかではありませんが、明治12、13年(1879、1880)に在籍していたという塾生の回顧録があるので、そのころまでは続いていたようです。 三叉学舎は、多いときには100人を超える塾生がいました。その中には後に首相となる原敬や、日本初の近代的国語辞典『言海』を刊行する国語学者・大槻文彦、海軍司令官となる東郷平八郎、津山出身で食料品などの輸入を行った明治屋の創業者・磯野計ら、そうそうたるメンバーがいます。三叉学舎は、明治後期から大正・昭和初期にかけて、日本の政治や経済、教育の分野を支える人材を輩出するという、大きな役割を果たしたのでした。
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