洋学博覧漫筆
おらんだりゅうげかめんきょじょう |
Vol.2 阿蘭陀流外科免許状 |
▲『阿蘭陀流外科免許状』 (津山洋学資料館寄託資料) 津山洋学資料館で「最も古い資料を1点」と問われたら『阿蘭陀流外科免許状』と答えるでしょう。 これは代々津山藩医を勤めた久原家に伝えられたもので、同種の資料としては全国でも数えるほどしか残っていない貴重なものです。 津山藩主・森家の家臣に久原宗清良政という人がいて、その養子に迎えられたのが、久原家で医家初代となった甫雲良賢でした。江戸時代中ごろ、甫雲は当時最先端の医学を学ぶことを志し、江戸に出て西洋外科の大家だった西玄甫に入門しています。 玄甫は、長崎でポルトガル通詞・オランダ通詞を勤めながら西洋の医学を会得し、後にその評判を聞き及んだ幕府に医官として召し出され、江戸に移り住んでいました。 慣れない江戸の町での修業は厳しいもので、甫雲は大いに悩み苦しんだことでしょう。そして延宝5年(1677)10月、ようやくすべての技を習得できた証として師から授けられたのが、この免許状だったのです。 「阿蘭陀流外科」とありますが、玄甫の経歴や時代からみて、その内容はどちらかといえば南蛮貿易の時代にポルトガル人が伝えた「南蛮流外科」に近いものだったようです。 さて、4代続いた森家も後継者が途切れ、元禄10年(1697)に領地が没収されます。翌年、親藩松平家が津山藩主となりますが、甫雲はこの松平家に召し抱えられます。それから明治に至るまで、9代にわたって西洋流外科を本業として藩医を続けたのでした。 明治45年(1912)に京都帝国大学第4代総長となった有機化学の先駆者・久原躬弦もこの家の出身なのですから、家の持つ伝統の奥深さを感じずにはいられません。 甫雲が時勢に先立ってこの免許を授けられたのは、後に杉田玄白らが『解体新書』を刊行した安永3年(1774)をさかのぼること97年も前で、森藩当時すでに蘭学の芽生えが見え始めていたことは注目に値します。
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