洋学博覧漫筆
かくちもんどう |
Vol.42 『格致問答』の刊行 |
▲『格致問答二編』 (津山洋学資料館寄託資料) 安政2年(1855)3月、56歳になった箕作阮甫は、家督を秋坪に譲って隠居しました。それと同時に秋坪は藩主継嗣松平慶倫の御匙代(おさじだい)を命じられます。「御匙」とは、薬の処方を匙で行なったことからそう呼ばれたもので、次の藩主の薬を調合する責任ある立場でした。 その翌年に秋坪が刊行したのが『格致問答』です。「格致」とは「格物致知」という儒教の言葉を略したもので「物の道理を極め、知的判断力を高める」という意味です。そして、生徒が先生に質問する形式で解説されているので「問答」と名づけられています。これは、オランダの科学者ヨハネス・ボイスが著した物理学の教科書を、題名だけ日本語にしてオランダ語の原文のままで刊行したものです。さらに安政5年(1858)には、第二編を出版しています。 当時、このボイスの本は、国内でもとても評判が良く、多くの蘭学者が利用していました。青地林宗によって刊行された日本で最初の物理学書『気海観瀾』も、この書の一部を訳したものでした。 有名な蘭学塾や各地の藩校でも、オランダ語の原書が教科書として使われていましたが、原書は数が少ないうえに高価で、学生たちは手書きで写していました。そこで秋坪は、学生たちの書き写す手間や写し間違いをなくして、勉強に役立たせようと、原文のままで本書を刊行することを考えたのでした。 秋坪は完成した本を、大坂の適塾で教えを受けた緒方洪庵にも贈っています。洪庵からの礼状には「良い本を出版されたので、大いに広益になることでしょう」と率直なほめ言葉がしたためられています。 秋坪はこの後、オランダやイギリスなどヨーロッパ6カ国とロシアに渡って外交交渉に奔走することになります。そのためか、意外にも秋坪がその生涯で刊行したのは、この『格致問答』だけでした。
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