津山洋学資料館

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箕作佳吉の動物学研究

 

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洋学博覧漫筆

 

         みつくりかきち
Vol.51 箕作佳吉の動物学研究

 

箕作佳吉

 

箕作秋坪の三男・佳吉は安政4年(1857) 12月1日、江戸の津山藩上屋敷で生まれました。秋坪の私塾・三叉学舎で学び、次に福沢諭吉の慶応義塾で教えを受け、15歳で東京大学の前身である大学南校に入学します。
入学してしばらく経ったころ、大学南校のアメリカ人英語教師・ハウスが帰国することになり、日ごろからハウスに目をかけられていた佳吉は「アメリカに行きたいなら連れて行ってあげよう」と誘われます。すでに兄二人が留学を果たし、自分もいずれは留学したいと願っていた佳吉は、すぐに同行を決意し、明治6年(1873)2月、16歳でアメリカに渡りました。
 明治10年(1877)、佳吉はエール大学に入学して動物学を専攻し、卒業後はジョンズ・ホプキンス大学へ移り、動物学の研究を続けました。
 明治14年(1881) 12月、9年ぶりに日本へ帰国した佳吉は明治政府から東京大学理学部への勤務を命じられ、その1年後には日本人で最初の動物学の教授に就任します。まず最初に佳吉が取りかかったのは、海洋生物の研究をする上で欠かせない臨海実験所の建設でした。
 明治19年(1886)、東京湾と相模湾に面した神奈川県三浦半島の西南端に位置する三崎に実験所を建設します。明治30年(1897)には規模を拡大するため油壺に実験所を移し、組織も整えて佳吉が初代所長に就任しました。
 三崎や油壺はさまざまな生物の宝庫で、佳吉や学生たちは熱心に研究に取り組み、新種や稀種の海洋生物を次々と採集します。その中には、ミツクリザメやミツクリエビなど、佳吉の名字・箕作にちなんで名づけられた生物もたくさんあります。
 そんな佳吉のもとに、後に御木本真珠店を創業する御木本幸吉が訪ねて来ます。幸吉は真珠の養殖に取り組んでいましたが、当初、失敗続きだったため、海洋生物に精通している佳吉の指導を仰ごうとしたのです。そして、ついに明治26年(1893)、世界で最初に真珠の養殖を成功させました。

 明治42年(1909)9月、佳吉は病気のため53歳で逝去します。日本の動物学研究の基礎を築き、多くの後進を育成した佳吉を悼み、アメリカの学界から「日本は一人の偉人を失った」との声が寄せられました。

 

 

 

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