洋学博覧漫筆
げんぽ |
Vol.28 阮甫の翻訳業 |
▲『泰西名医彙講』 (津山洋学資料館所蔵) 天保2年(1831)3月、家族とともに江戸に移った阮甫は、ひとまず鍛冶橋の津山藩邸に落ち着きました。 藩医とはいえこの頃の阮甫の生活は苦しいもので、ときには湯銭にさえ困るほどでした。そこで、藩邸を出て八丁堀に家を構え、医院を開くことにしました。もちろん本業は藩医ですから、非番の時に町人の診察を行う程度でしたが、評判も上々で家計にもゆとりができたといわれています。 しかし、ようやく生活も落ち着いた天保5年(1834)の2月、神田佐久間町を火元に、3,000人もの死者を出す大火事が起こります。阮甫の借家も類焼して、せっかくそろえた家財をすべて失ってしまったのでした。 落胆した阮甫は再び藩邸に戻り、これまでの生活を振り返り「生活のためとはいえ、薬を集め、治療を施すことだけに日々を費やしていてよいのだろうか」と考えるようになります。そして「自分のため、世間のためにも西洋の書物を翻訳して人々に紹介することに専念しよう」と決意したのでした。 それからは藩医の仕事の時以外は、ひたすら翻訳に没頭しました。火事の翌年の天保6年(1835)には、シーボルトの門人の伊東玄朴から依頼を受けて翻訳した『医療正始』の刊行が始まります。 さらにその翌年からは日本で最初の医学雑誌『泰西名医彙講』の刊行を始めました。これはオランダ語の医学書から主要な論文を抜き出したもので、緒方洪庵らも翻訳を手伝っています。出版資金を作るために阮甫は衣服を質に入れましたが、そのような時にも「世間の人々はまだ外国について学ぶことの重要さに気づいていないので、役に立たないことをしているように見えるかもしれない。しかし、国のため、学問のために尽くそうとひたすら勉強しているのだ。今一時の困窮など何でもない」と言って、自分の信念を貫いたのでした。 この後、阮甫の翻訳業は医学にとどまらず、語学や地理、歴史などの分野へ広がっていきます。そして開国へと時代が変化していく中で、人々に海外の情報を提供する大きな役割を果たしていくことになるのです。
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