津山洋学資料館

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宇田川榕菴の生い立ち

 

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洋学博覧漫筆

 

           うだがわようあん
Vol.13 宇田川榕菴の生い立ち

 

宇田川榕菴肖像画

 (武田科学振興財団杏雨書屋所蔵)

江戸蘭学界のリーダーとなった津山藩医・宇田川玄真には子どもがなく、44歳のときに養子を迎えています。今回はその養子となった榕菴の生い立ちから紹介することにしましょう。

 寛政10年(1798)3月9日、榕菴は大垣藩医(江戸詰)・江沢養樹の長男として生まれました。養樹は宇田川玄随・玄真の二人に学んだ人で、玄真が宇田川家を相続する際には、その後押しをした人物です。母の安子も教養の高い女性で、子どもたちの教育にはとりわけ熱心でした。

 榕菴は幼いころから利発だったようで、6歳のころ病気で高熱にうなされたときに、うわごとで唐詩を叫んだという逸話が残っています。また、凧や独楽といった遊びは好まず、一人で絵を描くことが好きな子どもだったといいます。特に蟹の絵が得意で、両親は来客があると蟹を描かせては自慢していました。

 そんな榕菴に転機が訪れたのは14歳のときでした。玄真にその才能を見込まれ、洋学の名門・宇田川家の養子に迎えられることになったからです。当初榕菴は、厳格な玄真のもとで漢方医学や本草学(博物学)など基礎的な学問を学んで過ごしました。

 榕菴が17歳になった文化11年(1814)、出島のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフ一行が将軍に拝謁するために江戸へやって来ました。このとき玄真に従って彼らと面談した榕菴は、薬について質問したという記録があります。この出会いは榕菴に大きな刺激を与え、この後「本格的にオランダ語の勉強がしたい」と思うようになります。

 その様子を見た玄真は「外国語を習得することは一生の大業だ。優れた学者になろうと思うのなら、ゆっくり成長することを嫌がってはいけない。6、7年後から勉強を始めても決して遅くはないだろう」と榕菴をたしなめました。オランダ語を学ぶ前に、まずは基礎教養である漢学をしっかり身に付けることが重要だと考えたからです。

 しかし、榕菴のオランダ語への思いはますます熱くなるばかりです。そこで、玄真は説得をあきらめ、語学の天才といわれた馬場佐十郎のもとで学ばせることにしたのでした。

 のちに榕菴は日本で最初の植物学や化学の本を刊行しますが、その大業の基礎となった実力は、このときから培われていったのです。

 

 

 

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