津山洋学資料館

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ロシア船の来航

 

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洋学博覧漫筆

 

         
Vol.32 ロシア船の来航

 

魯西亜国蒸気船之図」

   (津山洋学資料館所蔵)

ペリーが浦賀を去ってわずか1月後の嘉永6年(1853)7月18日、今度はロシアの海軍中将プチャーチンが4隻の軍艦を率いて長崎に来航しました。プチャーチンの目的は、開国と通商、さらに千島・樺太の国境を決めることでした。

 幕府は、10月になってようやく、西丸留守居の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨たちを応接使に任命します。そして津山藩医の箕作阮甫に、川路の随行として長崎へ向かうよう命じたのです。この命令は阮甫にとって思いもかけないことで、慌ただしく準備を整えると、1030日に家族に見送られて鍛冶橋の藩邸を出発しました。

 当時、長崎までは陸路で40日ほどもかかる長旅でした。50歳代も半ばとなり、病気がちな阮甫にとっては大変な旅でしたが、大役を命じられた緊張感からか「見慣れた須磨・舞子浜の風景も、今回の旅では違ったように見える」と日記につづっています。

 12月8日に長崎に着くと、阮甫はすぐにプチャーチンの手紙やロシア側の条約草案などの翻訳に取りかかりました。川路は外国の地理や歴史に詳しい阮甫を信頼し、ときには機密事項も話して意見を求め、交渉が山場になると後ろに控えているよう命じています。

 長崎での交渉は、幕府の狙い通りロシア側に具体的な成果を与えず、プチャーチンは翌年の1月8日に交渉をいったん打ち切って長崎を去りました。

 阮甫はその後もしばらく翻訳に従事し、1月17日早朝、帰途につきます。阮甫はこのときの心境を「長崎におよそ40日滞在したが、ロシア人が帰るまでは心が休まることがなかった。帰りの駕籠に乗って、ようやく一息つくことができた」と書き残しています。

 この後、プチャーチンは10月に下田(静岡県)に来航し、再び阮甫は川路に随行するよう命じられます。途中東海地方を襲った大地震と大津波でロシアの旗艦ディアナ号が大破するなど、さまざまな困難が起こりますが、それらを乗り越え、安政元年(1854 1221日に日露和親条約が結ばれたのでした。

 

 

 

 

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