津山洋学資料館

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蘭学者相撲見立番付

 

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洋学博覧漫筆

 

           らんがくしゃすもうみたてばんづけ
Vol.12 蘭学者相撲見立番付

 

蘭学者相撲見立番付

  (早稲田大学図書館所蔵)

今でも長者番付などがありますが、歌舞伎や相撲の番付に見立ててさまざまなものを順序づけることは、江戸時代後期から盛んに行われていました。その一つが、今回紹介する「蘭学者相撲見立番付」です。

 この一風変わった番付は、蘭学者たちが太陽暦の正月を祝った「新元会」の席で遊びで作ったものといわれていますが、当時活躍していた蘭学者80人の名前がずらりと並び、彼らの実力や地位をよく物語っているのです。現在は早稲田大学図書館が所蔵していますが、元の持ち主はなんと津山藩の藩主・松平斉民でした。

 それでは内容を詳しく見てみましょう。写真には写っていませんが、中央部分には勧進元(世話人)として大槻玄沢と桂川甫周、年寄には杉田玄白、前野良沢といった江戸蘭学の創始者たちの名前があります。

 右上を見ると、東の大関には「作州 宇田川玄真」と、津山藩医・宇田川玄真の名前が挙げられているのです。このころはまだ「横綱」は地位ではなく、大関や関脇の中でも特に優れた力士に与えられた土俵入りの免許のことをいいました。ですから大関が番付の最高位で、玄真の実力が一番ということなのです。

 玄真の隣、関脇には『ハルマ和解』の編さんで有名な稲村三伯の名前が並んでいます。この番付が作成されたのは寛政10年(1798)、ちょうど玄真が三伯の義弟として宇田川家を相続した年でした。

 これほど高い評価を受けた玄真の実力は、日々の努力によって築かれたものでした。幕末に津山藩町奉行を勤めた馬場貞観が記した『老人伝聞録』には「玄真は日夜机に向かって蘭書の翻訳をしていて、病気のとき以外は布団で眠らず、眠くなると座ったまま眠っていた」とあります。そのため、夜に玄真の部屋の前を通ると、どんなに遅くても障子に坊主頭の影が映っていたのだそうです。

 そんな玄真に学ぼうと、各地から多くの門人が集まりました。養子となった榕菴を始め、坪井信道や箕作阮甫、緒方洪庵など、その数は数百人にも及んだといいます。彼らによって次代の洋学研究は支えられていくのです。

 

 

 

 

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